2023年07月14日

第3212夜:呑み善は急げ【三宮(神戸)】

 <亀遊>。神戸三宮の東門筋と北野坂の間に位置する割烹である。

 2023年2月中旬。神戸新長田の寿司屋で逝去された我が主君(叶_戸ながたTMO初代社長・U田司郎氏)を偲んだ後、数年ぶりに復活した二十数年来の付き合いになるママのスナックへ。

 そこに<亀遊>オーナーのお母上が客でおられた。ママとお母上は私が生まれる前からの知り合いな雰囲気。その際、お母上とも意気投合し、近いうちに必ず店に行くと約束した。

 「近々行く」「今度行く」などの口約束はまず実現しない。具体的に「いつ」と決めなければならない。私はママと会った3日後ぐらいに<亀遊>へ足を運んだ。善は急げである。

 時は令和5年2月下旬。神戸新長田時代はほぼ新長田で呑んでいたが、月に数回は三宮で呑んでいた。神戸新長田を離れてからも年に数回は三宮で呑んでいた。しかし、令和2年4月以降、三宮で呑んだ記憶がない。コロナ以降である。

 <亀遊>はオープンして10年ほどらしい。私が新長田どころか神戸、兵庫と御縁が無くなってからである。いざ、店内へ。4人掛けテーブルと7人カウンター。かなりゆったりである。居酒屋でなく割烹という雰囲気である。実際に割烹なメニューだ。

 生で乾杯。お通し3種盛が気合満点。どれもひと手間加えられたプロの味。女将の息子さん(私より2歳年下)がマスター。同世代で嬉しくなる。

 刺身盛合せ、抜群に旨かった。うに、鯛、よこわ、烏賊…。日本酒を熱燗でマスターにお任せ。料理に合う順で出してくる。

 自家製からすみ、塩加減、柔らかさとも無双。これまで喰ったからすみの中でも出色の出来栄え。痛風にはデンジャラスな逸品ばかりだが、そんなことすら気にならなくなる。

 生ビールをチェイサー代わり熱燗ガンガン。牡蠣と蓮根の天ぷら、すごいボリュームである。牡蠣の味が濃い。生ビールも激しく空いていく。日本酒は6種類楽しんだ。どれも個性があり、マスターの解説がどんぴしゃり。

 最後にマスターが粕汁を出してくれた。ポタージュかと思った。朝来の竹泉という蔵元の酒粕らしい。そして、その竹泉の熱燗をやりながら竹泉の粕汁。シルモノ呑み好きには至福。

 外国人と日本人が半々なお客の一群がご来店。時計を見た。え、23時前?4時間近く呑んでいたのか。お会計を済ませ、久々に<IBY>へ。客は誰もいない。

 超久々の三宮呑み。レーズンバターをツマミにジントニック2杯とラフロイグ2杯。ゆったりした店内で話し込んでいると、お客がどんどん。いつの間にか満席に。先ほどの店と同じパターン。

 夜遅くの2回転目、3回転目が動き出したか。アフターコロナは目前である。

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自家製からすみ(手前)が無双の酒泥棒。

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天麩羅の旬。

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よく呑んだ。

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プロのかす汁に驚嘆。

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私が唯一通う三宮のバー。

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2023年07月12日

第3211夜:ヤルキ・ゲンキ・カイザキ【神戸(兵庫)】

 K崎兄さん。神戸甲南を本拠とする、神戸新長田が本拠だった私にとって叔父貴的存在なアニキである。私より15歳ほど年長で新長田時代の盟友・M井氏と大学同級生である。

 2月吉日の夜。数年ぶりに両氏と神戸駅前の焼鳥屋で呑むことに。私は会津若松から自宅に立ち寄らず直行。

 K崎氏は1滴も酒が飲めないと思い込んでいたが、生で乾杯。氏はさらにチューハイも注文。M井氏は1杯目から熱燗といつもながらマイペースだ

 焼鳥、唐揚、ポテトフライなどをツマミに、K崎兄さんが歩んだこの数年の波乱万丈をお聞きする。一般人が普通経験できない修羅場の連続。私もお話に没頭し、何故か気合が入った。

 掌返しする不義理者が跋扈する中、M井氏は絶対的な義理者。お世話になった方を平気で掌返しするバカにならぬ自身を律さねばばらぬ。この2人がいなかったら今の私はない。

 大いに呑んで話し、気づけば23時半。えっ、5時間もたったのか。

 それから20日後。両兄さんと今度は湊川に近接する東山商店街<華吹>へ。20日ほど前に呑んだ際、暑気払いで夏ごろにとなっていたが、M井氏から緊急招集が掛かった。そして、今回は私の新長田駆け出し時代のアニキ・Y岡アニキも参戦。

 私がまちづくり会社に入社した年(1999根)の秋、神戸新長田で「復興バザール」という1か月間に及ぶイベントがあった。私は事務局を仰せつかっていた。初めて自分自身が関わる、メインを張るイベントである。

 イベントなど企画も実行もしたことなかったうえに、当時はまだ震災復興再開発ビルも竣工しておらず仮設だった。再開発ビル管理会社に勤めていたが、そもそも管理する建物がまだ無かったので私はひたすらイベントの手伝いに専念していた。

 祭が終わり放心状態だった冬。Y岡アニキとM井氏がK崎兄さん率いる「甲南きらめき委員会」を新長田にお招きした。K崎氏とY岡氏は肉屋若手繋がり、M井氏とK崎氏は大学同級生、私とM井氏とY岡氏は復興大バザールの実行委員という御縁が重なり、K崎氏と御縁が出来た(伏字使い過ぎて複雑に)。

 圧倒された。カリスマ、パワー、すべてがギンギンに漲っていた。それに刺激を受け、すぐに新長田でも「アスタきらめき会」を立ち上げた。甲南の弟分的位置づけである。そのアスタきらめき会が、2001年に設立された「叶_戸ながたTMO」の原型になった。

 以降、K崎氏と年1回ペースでお会いする機会があった。様々な相談に乗っていただいた。氏からのアドバイスで私の公私両面で活路が開けたことも何度もあった。新長田の関係者を除けば、私のこれまでの人生に最も多大な影響を与えて下さったのがK崎兄さんである。

 生で乾杯。この店、素晴らしい。独り用の鍋で数種類楽しめる。私は神戸牛の小鍋。肉たっぷりで1300円は缶類。串焼、ポテトフライ、出汁巻玉子、唐揚…。何喰っても旨い。

 1時間ほどしてY岡氏参戦。K崎氏とY岡氏も久しぶりらしい。私とY岡氏は数年前に北九州の旦過市場でお会いして以来。8年ぶりぐらいか。

 海崎節、この夜も絶好調である。前から豪快で話術も抜群だったが、一般人が味わえぬ経験を経て、さらに話術、人間性すべての厚みと深みが増している。

 途中、海崎兄さんが「やる気 元気 海崎」と発した。思わず噴き出した。二十年ぶりにそのフレーズを聞いた。今聞くとギャグだが、当時は誰も笑わずただ首肯していた。

 お会いした頃から二十余年。還暦越え2名とアラフィフ2名に。ぎらついていたあの頃とは違うけど、3人のアニキたちと話しているとやる気、元気が漲ってくる。そして、それを倍加させるのがK崎兄さん。まさに「ヤルキ、ゲンキ、カイザキ」である。

 駅方面へ歩く。途中、M井氏が湊川の広大な空中庭園へ。シブいビルの地下まで下ると、そこはライブバー。店内、年配でびっしり。私が最若手かもしれない。

 一番前しか空いておらず、超アリーナ席に座る。ステージではギター弾きがたりの中年オヤジが熱唱。ハイボールで乾杯する。

 ステージのオヤジはM井氏を指名。ステージで歌えという。本人、かなり迷っていたが腹をくくってステージへ。オヤジに「春夏秋冬」をリクエスト。オヤジが弾く。M井氏が唄う。店内の客も歌いだす。

 残りの人生、あと何度春夏秋冬を巡れるかわからない。しかし、この4人で春夏秋冬ごとに酒を酌み交わしたい。極上の夜だった。

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第1回は神戸駅前。

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5時間も飲み喰い。

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会津から直行して良かった。

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第2回は湊川の東山商店街。

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小鍋、圧倒的破壊力。

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Y岡アニキも参戦。

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ミナエンの地下へ。

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謎のライブハウス。

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春夏秋冬を熱唱するM井氏(左の紳士)。

(付記)

それから数カ月の梅雨の夜(4日前)。板宿西部市場の超人気居酒屋<くろかま>さんで第3回ヤルキ・ゲンキ・カイザキ会決行。近畿タコシーのM崎社長も入会。2軒目は焼肉屋。濃厚であります。

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posted by machi at 10:38| Comment(0) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月11日

第3210夜:ラストエンペラーな男・終章【新長田(神戸)】

 ケンカ司郎。半世紀以上にわたり神戸・新長田地区の発展に寄与されてきた大正筋商店街元理事長・上田S郎氏の二つ名(自称)である。数え切れぬほど様々な役職に就かれていた。ちなみにこの二つ名は自称であり、ケンカなど想像もつかない。これほどテキのいない御仁も珍しい。

 令和5年の立春を超えた頃、神戸新長田時代の元部下から訃報が入った。U田理事長(私は長年、その時の役職に関わらず習慣で「理事長」と呼び続けていた)が88歳で逝去されたという。ご家族のご意向で家族葬となったらしく、通夜、葬儀の参列が叶わなかった。

 理事長が旅立たれてから約1週間後。訃報を伝えてくれた元部下と理事長を偲ぶことに。向かったのはタンク筋<寿し天>。金もない若手の頃、理事長によく連れて行っていただいた。

 私は1999年3月から2010年3月まで震災復興再開発を推進する新長田まちづくり鰍ノ勤めていた。その間、新長田南地区の市場や商店街、地元企業や市も出資した商店街振興を目的とした「叶_戸ながたTMO」を2001年に設立。U田理事長が社長に就任。当時26か27歳だった私が出向でなく兼務で総括マネージャー(事務局長のようなもの)を仰せつかった。

 TMOは使命を終え2022年に解散したらしい。TMO設立から私が新長田を離れるまでの9年間、事務局長として社長にお仕えしてきた。血気盛んで反抗的で生意気で、勢いしか取り柄がない私を暖かく育てて下さった。今の私があるのは、間違いなく理事長のおかげである。

 理事長はビールがお好きだった。マスターらも交えて献杯。あん肝、鯵たたき、酢牡蠣、鱈白子焼などをツマミにビールや熱燗を呷りながら、理事長の思い出話に華が咲く。

 TMOとしてお仕えしたのは約9年だが、実質10年以上理事長と新長田、三宮などで呑みに連れて頂いた。年間数十日は鯨飲した。どこに行っても理事長は顔であり、人気者だった。

 理事長はご自身が行ったことのない店へ行くことを好まなかった。私が意向を無視して行きたい店に入ったら、マスターやママやお客さんは間髪入れず「あら、U田さん」。

 視力が悪かった理事長は会社に入ってくるや私に近寄り、私の肩をたたいて「アヅマさん居って?」。私が今いませんと答えたら、私の声で気づいたらしく「アンタ、アホ言いな」。

 私の終業時間近くに理事長がとことこ近寄ってきて「アヅマ、今晩どない?行ったらなあかん店があんねん」。

 呑み屋のママや女将が理事長のお店(エプロン・婦人服販売)でエプロン(たぶん1000円程度)を買った日の夜、理事長はお礼を兼ねてそのママの店に私ら若手を連れていく。そこで理事長はエプロンの10〜30倍以上の支払いを済ませる。

 売上をテコ入れしたい新長田界隈のママたちも理事長の習性を把握しているのだろう。商いとは何かという哲学的命題を突き付けられた気分になる。

 いつも陽気な理事長だが、たまに口数少なく景気の悪そうな沈みがちの表情を浮かべていることがあった。そんなときは、ご自身が保有されているドルが下落している時だった。

 金のない若手時代、めったに喰えないカウンター寿し。理事長のフトコロを頼りに思う存分2カンづつ好きなものを好きなだけ喰っていた。この夜は烏賊、赤貝、赤身、中とろ、いくら、雲丹を1カンづつ握ってもらう。今はこれで充分。私も、年を取った。

 理事長に初めて<寿し天>に連れてきて頂いていから二十余年、私も自分のフトコロで、部下の分までご馳走できるオトナになることができた。ちなみに理事長は、どんな時でもどんな店でも、何人いようが絶対に他人に支払わせることがなかった。

 理事長が数年前にお店を閉められた際、盟友・M井氏と<寿し天>で慰労した。その際、理事長が席を外したわずかの隙に私とM井氏で気づかれぬようにお会計を済ませた。理事長は「アンタら、何しとんねんな」とお怒りだったが、柔らかい笑みも浮かべておられた。

 理事長がいなければ、今の新長田の隆盛はなかった。震災で壊滅的な被害を被った新長田地区。今の新長田の活況はラストエンペラー無しではありえない。

 理事長の思い出話は尽きなかった。しかし、涙は流れなかった。楽しい笑い話ばかり思い出す。彼岸に旅立ってからも、粋な漢である。

 何年後か、何十年後か、何千年後か分からぬが、新たな彼岸の街で理事長に再度お仕えし、呑みに連れて行ってもらいたいものである。もちろん、理事長のおごりで。

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2019年4月30日<タイコー>最終日。

posted by machi at 07:39| Comment(0) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする