椛S国商店街支援センター。2009年に産声を上げ、全国津々浦々の商店街や市場を伴走型で様々な面でご支援されてきた国家公認の特務機関である(はず)。
2010年度から神戸新長田を離れフリーに。その年に商店街支援センター事業が本格起動。早速お仕事を頂戴することができた。当時の事業統括・F田姐さんは私の恩人である。このバカブログを始めたのは2010年6月。以来、今回のアップ内容まで二人三脚だった。
時代を先取りしすぎた「現地マネージャー育成事業」から始まり、東日本大震災に起因する「被災商店街復興支援事業」、商店街のビジョンやプランを策定する「トータルプラン策定支援事業」、そのプランを実行する「トライアル実行支援事業」。そこから派生した「空き店舗総合支援パッケージ事業」。
あらゆるよろず相談に対応する「よろず相談アドバイザー派遣事業」、天災人災からの復旧復興をサポートする「被災商店街復興ノウハウ提供事業」…。他にも様々な事業あった。
北海道から沖縄まで、支援センターからの指令を受け、掛け値なしに飛び回った。センターが存在していなければ、フリーのまちづくり屋としての私は1oも存在していない。
そんなセンターが惜しまれつつ令和5年3月に解体されることに。14年間も私はお世話になり続けてきた。この歳月は、小学校入学から短大卒業まで同じな超ロングラン。
令和4年12月8日、私の14年間に及ぶ商店街支援センターミッション最終回。最後の舞台は福島県会津若松市・神明通り商店街。
神明通りはトータルプランをきっかけに2年目から空き店舗対策事業へ移行。都合5年間コロナ禍でも通い続けた。私の支援センター業務を3区分すれば後期を彩った。
終了後、4人で最後の懇親会。向かった先は我が定宿から30m程度の<あいべ>。初ダイブである。同行氏たちも初めてらしいが、店のママは当然のごとく皆さまをご存じだった。
生(マルエフ)で乾杯。メニューが素晴らしい。酒も豊富でホッピーまである。目移りする。
料理も安くて絶品だった。お通し3種盛も凝っている。手抜き1gもなし。
かしら焼は「豚の頭」。焼とんの人気串。1ヶが大きく柔らかく絶品。全員首肯している。
私が会津でハマった料理が「にしん山椒漬」。無双に酒に合う。土産物売場で見つけたら絶対に買う。保存も効く。この店は少し炙って出してくれた。風味が増していた。
「銀杏」の入り具合も天晴で、豚レバーカツは柔らかく臭み皆無。おでんも串が刺さり出汁が染みている。唐揚もジューシーだ。熱燗に切り替えてピッチを上げる。
鯖カンカンは鯖水煮缶を携帯コンロに移し替えた逸品。缶詰もここまで手間かけると絶品に昇華。絶対に自宅でやらない、やろうと思わぬ。楽したい缶詰の本質と逆行した旨さである。
会津最強名物は「馬刺し」。辛子味噌で味わう。熊本の霜降りでなく上品な赤身。会津で毎月のように味わってきた。通いだして数年たってから知ったのだが、相当な高級品だった。
〆は「焼きおにぎり」。私はそれほど好まないのだが、香ばしい匂いとセクシーすぎる焦げっぷりに降参。十数年ぶりか。前に食べた記憶がない。もしかすると、子供の頃以来か。
熱々を手にかぶりつく…。前歯にカリっとした反逆。そして醤油の旨味が押し寄せ、熱くて甘い新米(たぶん)が押し寄せる。こんなに旨い食べ物だったのか。付け合わせの漬物も見事なアシスト。人肌になった熱燗で流し込んだ。
最後の最後に素晴らしい名店と邂逅。もう会津は我が生涯最後かもしれない。最後の晩餐かもしれない。神明通り理事長、専務理事、若手理事に5年間のお礼を申し上げ店を出た。
30m先は我が定宿。霧で霞んでいる。幻想的である。部屋に戻り、大浴場で凝りを解しベッドにもぐりこんだ。
まだ太陽も顔を出さない翌朝5時。ポットで湯を沸かし、カバン常備のスティックインスタントコーヒーを飲みながらPC猿打。
2杯目の珈琲を飲み終え、太陽が天に昇りだした7時半頃、会津若松のレポートなど一式をクライアントである椛S国商店街支援センターへ、ファイルを添付してメール送信ボタンを押した。送信トレイからフォルダが消えた。私の14年間が終了した。
最後の晩餐。
嬉しいお通し3種。
会津で大好物になった「にしん山椒漬」。
塩の上の殻付き銀杏は旨さ倍増。
鯖缶も演出次第で高級感たっぷり。
会津名物の馬刺し。おでんとともに。
締めは焼おむすび。
神明通り商店街の皆さま、5年間ありがとうございましあt。
霧が煙る最後の夜。14年間ありがとうございました。