毎月若松を訪れている私は、街中だけでなく区内を隈なく視察したつもりだったが、軍艦防波堤の存在もその名称も全く存じ上げなかった。若松区民でも認知度は低いそうだ。
2014年9月下旬の夕方。紀伊田辺から6時間以上かけて若松入りした私は、早速K九州商工会議所若松サービスセンター・K本センター長のご案内で軍艦防波堤を視察した。商業まちづくりが主戦場の私にとって、なじみの薄すぎる分野である。なぜK本氏が私を案内したのか。宇宙戦艦ヤ●ト世代の氏は、軍事オタクというより軍艦・廃墟マニアであるからだ。
観光部局にも在籍していたK本氏は、貴重な観光資源となる可能性を秘めた軍艦防波堤を発信し、地域活性化の起爆剤にできないか。それを探るべく、誰に頼まれたわけでもないのに休日に朝から晩まで一人で防波堤に佇み、軍艦防波堤目的で訪れた人数をチェックしていたという。軍艦にも廃墟にも興味のない私には、その情熱に頭が下がるばかりである。
中心市街地から車で10分から15分移動。広大な敷地のエコタウンを抜けていく。何の看板表示もなく、ガイドブックにも載っていないなので、イチゲンが辿り着くことはまずないような分かりにくい場所に防波堤があった。車を降りると、数人の男性が見えた。おっ、人気あるではないかと近寄ってみると、全員釣り人だった。知る人ぞ知る釣りスポットのようだった。
戦艦大和の駆逐艦だった「涼月」「冬月」は大破しながらも奇跡の生還を果たす。以降、いろいろあったみたいで現在はコンクリートの下に埋められその姿を拝むことはできないが、大和の駆逐艦ではなかったらしい小型の「柳」は、その形状が垣間見ることができる。
「柳」は基準排出量755t、全長約85m。大正6年に誕生し、昭和15年除籍になるまで世界の海で大活躍。大正7年にはフランスの輸送船を助け500名以上を救助し、勲章を頂いているそうだ。「涼月」「冬月」と比較するとかなり小さいそうだが、実際に目にして周囲を歩いてみると、その迫力と歴史に圧倒されそうになる。
軍艦防波堤の対岸は、日本近代化の象徴・八幡製鉄所が見える。明治から大正、昭和への激動の時代を経て、平成になっても防波堤として若松の港を守り続けている。先端に残っている舳が、悠久の重みを感じさせる。
来年(2015年)は戦後70年。軍艦・廃墟マニアだけでなく、若松の軍艦防波堤は一般市民にも熱い注目を集めるかもしれない。

軍艦防波堤。現在は釣り人の穴場スポットに。